光明寺 (綾部市) [ ┗京都のお寺]
舞鶴から山奥へ 綾部市というところらしい。
光明寺へ
wiki>『君尾山略記』には、推古天皇7年(599年)、聖徳太子による開創と伝える。その後白鳳元年(673年)、役小角が修験道の道場とし、延喜年間(10世紀初)、醍醐寺開祖の聖宝(理源大師)により真言密教の道場として中興されたという。最盛期には山上山下に72坊を有したと伝える。
光明寺へ
wiki>『君尾山略記』には、推古天皇7年(599年)、聖徳太子による開創と伝える。その後白鳳元年(673年)、役小角が修験道の道場とし、延喜年間(10世紀初)、醍醐寺開祖の聖宝(理源大師)により真言密教の道場として中興されたという。最盛期には山上山下に72坊を有したと伝える。
問答寺 勝林院 [ ┗京都のお寺]
3/17 10:13 三千院の参道を少し奥へ進んだところ。
勝林院へ
wiki>この寺は、835年円仁によって開かれたと伝えられ、1013年寂源によって中興されたと伝えられる。古くから来迎院とともに天台声明の道場であった。1186年には顕真と法然との宗論(いわゆる大原問答)がこの寺で行われた。江戸時代には4坊があったが、現在は宝泉院・実光院の2院が残る。
勝林院へ
wiki>この寺は、835年円仁によって開かれたと伝えられ、1013年寂源によって中興されたと伝えられる。古くから来迎院とともに天台声明の道場であった。1186年には顕真と法然との宗論(いわゆる大原問答)がこの寺で行われた。江戸時代には4坊があったが、現在は宝泉院・実光院の2院が残る。
北向山 不動尊 [ ┗京都のお寺]
3/16 13:45 鳥羽天皇陵の裏辺り
北向不動尊へ
HPもwikiにも見つからないので詳細は分かんないのですが、
鳥羽上皇の勅願により、都のある北向きに建てられたとかいう話。
北向不動尊へ
HPもwikiにも見つからないので詳細は分かんないのですが、
鳥羽上皇の勅願により、都のある北向きに建てられたとかいう話。
鳥羽離宮跡 安楽寿院付近 [ ┗京都のお寺]
近鉄の桃山御陵前駅から竹田駅下車
とある老人ホームの敷地内に
安楽寿院五輪塔 重文
周囲にそれと分かる説明が書かれたものは建っていませんが
とある老人ホームの敷地内に
安楽寿院五輪塔 重文
周囲にそれと分かる説明が書かれたものは建っていませんが
弁財天長建寺 [ ┗京都のお寺]
3/16 京阪で中書島へ
長建寺 | wiki>豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は元和5年(1619年)廃城後、伏見の町は衰退し、13代目伏見奉行 建部政宇(たけべまさのき)は元禄12年(1699年)、壕川を開拓するとき、深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を分離して現在地に移築した。建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こり。 かつての中書島遊郭の一角にある。 |
永観堂 禅林寺 [ ┗京都のお寺]
2/24 11:50 ちょっと早く昼飯を済ませて、南禅寺北側にある永観堂へ HP
wiki>京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。
wiki>京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。
南禅寺 方丈拝観 [ ┗京都のお寺]
2/24 10:50 国宝 方丈の拝観を
wiki>大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。
wiki>大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長度の御所建て替えに際し、天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたもの。「旧御所清涼殿を移築した」とする資料が多いが、清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものである。接続して建つ小方丈は寛永年間の建築とされる。
絶景かな絶景かな… ?? [ ┗京都のお寺]
金地院 庭園~本堂 [ ┗京都のお寺]
鶴亀の庭 特別名勝
鶴島
亀島を撮った写真がないな…
wiki>崇伝が徳川家光のために作らせた。作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。
桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる。特別名勝。
鶴島
亀島を撮った写真がないな…
wiki>崇伝が徳川家光のために作らせた。作庭には小堀遠州が当たった(遠州作と伝えられる庭は多いが、資料が残っている唯一の例)。
桃山時代の風格を備えた江戸初期の代表的枯山水庭園として知られる。特別名勝。
金地院 東照宮 [ ┗京都のお寺]
金地院 続き
鳥居の先には東照宮がありました。
東照宮 重文
wiki>崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628年)造営したもので、創建当初は日光東照宮と比された。
鳥居の先には東照宮がありました。
東照宮 重文
wiki>崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628年)造営したもので、創建当初は日光東照宮と比された。
金戒光明寺 [ ┗京都のお寺]
2/13 15:55 真如堂のお隣さん金戒光明寺へ HP
帰りしなに境内を通り抜けてみました。
北門
wiki>承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。
帰りしなに境内を通り抜けてみました。
北門
wiki>承安5年(1175年)春、法然が比叡山の黒谷を下った。その後岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。するとその石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで、法然はここに草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。
(≡゚∀゚≡)和尚 [ ┗京都のお寺]
知恩院、大鐘楼付近からいったん境内へ
でてすぐ安養寺というお寺があります。
伝教大師 (最澄)が創建。また、法然上人が比叡山を下り、吉水で開かれた草庵の一つでもある。
でてすぐ安養寺というお寺があります。
伝教大師 (最澄)が創建。また、法然上人が比叡山を下り、吉水で開かれた草庵の一つでもある。
知恩院 国宝三門 [ ┗京都のお寺]
2/13 10:40 再び円山公園を通って知恩院へ
いわずとしれた浄土宗総本山
知恩院 三門 国宝
wiki>1621年の建立。五間三戸の二重門である。高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門のなかで最大の二階二重門である。組物を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。日本三大門のひとつに数える説がある。
いわずとしれた浄土宗総本山
知恩院 三門 国宝
wiki>1621年の建立。五間三戸の二重門である。高さ24メートルの堂々たる門で、東大寺南大門より大きく、現存する日本の寺院の三門のなかで最大の二階二重門である。組物を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様であり、禅寺の三門に似た形式とする。門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなど、やはり禅寺風になっている。日本三大門のひとつに数える説がある。
建礼門院ゆかりの長楽寺 [ ┗京都のお寺]
2/13 10:00 長楽寺へ ここも京の冬の旅 特別公開です。
wiki>高倉天皇の中宮で安徳天皇の生母である建礼門院が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したと伝えられる。
建礼門院=平徳子 清盛と時子(深田恭子)の間の娘です。
wiki>高倉天皇の中宮で安徳天皇の生母である建礼門院が壇ノ浦の戦いの後、この寺で出家したと伝えられる。
建礼門院=平徳子 清盛と時子(深田恭子)の間の娘です。