薬師寺 [ ┗奈良 鎮護の道]
東院堂 国宝
wiki>元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717-724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築。堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。
wiki>元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717-724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・弘安8年(1285年)の建築。堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。
薬師寺鎮守八幡宮 [ ┗奈良 鎮護の道]
奈良市へ
休ケ岡八幡宮
宇佐八幡宮から勧進された薬師寺の鎮守社です。
駐車場から薬師寺へ向かう参道にあるんですが、そこに「薬師寺に参拝するときは休ケ岡八幡宮に詣でて身を清めてから参拝するという作法があります。」という旨の看板が立ってます。知ってました?
電車で来たらわざわざ寄らないと思いますが…
休ケ岡八幡宮
宇佐八幡宮から勧進された薬師寺の鎮守社です。
駐車場から薬師寺へ向かう参道にあるんですが、そこに「薬師寺に参拝するときは休ケ岡八幡宮に詣でて身を清めてから参拝するという作法があります。」という旨の看板が立ってます。知ってました?
電車で来たらわざわざ寄らないと思いますが…
石上神宮 [ ┗奈良 鎮護の道]
山辺の道の北端あたり
神仏霊場巡拝の道 19番 石上神宮へ HP
wiki>古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
神仏霊場巡拝の道 19番 石上神宮へ HP
wiki>古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。
社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
大和神社 [ ┗奈良 鎮護の道]
日本最古の神社? 大神神社 [ ┗奈良 鎮護の道]
神仏霊場巡拝の道 21番 大神神社へ HP
wiki>崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。
wiki>崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀には大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い大物主神の子である大田田根子に大物主神を祀らせたとある。
日本三文殊 安倍文殊院 [ ┗奈良 鎮護の道]
神仏霊場巡拝の道 34番 安倍文殊院へ HP
wiki>大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたという。
創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところであり、鎌倉時代に現在地に移された。旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られる。「東大寺要録」巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されている。
当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、2000年(平成12年)には安倍晴明堂が建立されている。
wiki>大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたという。
創建当時の寺地は現在の文殊院の西南300メートルほどのところであり、鎌倉時代に現在地に移された。旧寺地(桜井市安倍木材団地1丁目)は「安倍寺跡」として国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、安倍寺は東(右)に金堂、西(左)に塔が建つ法隆寺式伽藍配置をもっていたことがわかり、出土した古瓦の様式年代からも創建が7世紀にさかのぼる寺院跡であると見られる。「東大寺要録」巻6には、東大寺の末寺の1つである「崇敬寺」が安倍倉梯麻呂の建立であることと、「崇敬寺」の別名が「安倍寺」であったことが記載されている。
当院では陰陽師・安倍晴明が陰陽道の修行をしたともいわれ、2000年(平成12年)には安倍晴明堂が建立されている。
長谷寺 境内 [ ┗奈良 鎮護の道]
続き
本堂 国宝
wiki>本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。
本堂 国宝
wiki>本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。
長谷寺 登廊 [ ┗奈良 鎮護の道]
神仏霊場巡拝の道 35番 長谷寺へ HP
仁王門 重文
前回来た時も雨だったな…
wiki>長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
仁王門 重文
前回来た時も雨だったな…
wiki>長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
室生寺 五重塔 [ ┗奈良 鎮護の道]
時間になったので境内へ
仁王門
wiki>『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
仁王門
wiki>『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)によると、奈良時代末期の宝亀年間(770年-781年)、時の東宮・山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、室生の地において延寿の法を修したところ、竜神の力で見事に回復したので、興福寺の僧・賢璟(けんきょう)が朝廷の命でここに寺院を造ることになったという。
南法華寺 大石像巡り [ ┗奈良 鎮護の道]
畝傍橿原宮跡 橿原神宮 [ ┗奈良 鎮護の道]
再びの奈良
神仏霊場巡拝の道 33番 橿原神宮へ
wiki>初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)4月2日に官幣大社として創建された。
結構新しいのね… 知らんかった( ゚Д゚)
神仏霊場巡拝の道 33番 橿原神宮へ
wiki>初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)4月2日に官幣大社として創建された。
結構新しいのね… 知らんかった( ゚Д゚)
當麻寺 [ ┗奈良 鎮護の道]
神仏霊場巡拝の道 32番 當麻寺へ HP
北門
wiki>當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
北門
wiki>當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。
中宮寺 [ ┗奈良 鎮護の道]
Archaic smile: the smile that characteristically appears on the faces of Greek statues of the Archaic period (c. 650–480 bc), especially those from the second quarter of the 6th century bc.
~from the Encyclopædia Britannica~
法隆寺 西院伽藍 [ ┗奈良 鎮護の道]
拝観時間が8時~なのに8時近くになってもどこの駐車場も閉まったまま…┐(´д`)┌
神仏霊場巡拝の道 26番 法隆寺へ HP
南大門 国宝
wiki>室町時代(1438年)に、当時の西大門を移築し建立。
HPには移築とは書いてないな。文化庁DBにもそのようには書いてない。
神仏霊場巡拝の道 26番 法隆寺へ HP
南大門 国宝
wiki>室町時代(1438年)に、当時の西大門を移築し建立。
HPには移築とは書いてないな。文化庁DBにもそのようには書いてない。
金峯山寺 [ ┗奈良 鎮護の道]
神仏霊場巡拝の道 39番 金峯山寺へ HP
wiki>奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名である。また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺(おおみねさんじ)がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。
wiki>奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山には吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他にも多くの社寺が存在する。
「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域地名である。また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719メートル)の山頂近くには大峯山寺(おおみねさんじ)がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。
唐招提寺 [ ┗奈良 鎮護の道]
神仏霊場巡拝の道 24番 唐招提寺へ HP
南大門
wiki>唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
南大門
wiki>唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を初め、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。