後鳥羽天皇離宮跡 水無瀬神宮 [ ┗大阪 豊楽の道]
もうすぐ京都
神仏霊場巡拝の道 62番 水無瀬神社へ
wiki>後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。1494年(明応3年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。
江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無瀨宮(のち水無瀬神宮)に改称した。後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。
神仏霊場巡拝の道 62番 水無瀬神社へ
wiki>後鳥羽天皇の離宮水無瀬殿の跡に建立された。承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。1494年(明応3年)、後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎え、水無瀨宮の神号を奉じた。
江戸時代まで仏式で祀られていたが、明治時代に神式に改められ、水無瀨宮(のち水無瀬神宮)に改称した。後鳥羽天皇と同じく承久の乱により配流されてそこで崩御した土御門天皇・順徳天皇の神霊を配流地から迎えて合祀した。
日本最初毘沙門天 神峯山寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
こんどは高槻市の山の中…
神仏霊場巡拝の道 64番 神峯山寺へ HP
神仏霊場巡拝の道 64番 神峯山寺へ HP
wiki>「神峯山寺秘密縁起」によれば、文武天皇元年(697年)に役小角が葛城山(金剛山・葛城山)で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け神峯山寺に位置する場所にやってきた。そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で四体の毘沙門天が刻まれ、役小角は伽藍を建立し毘沙門天を祀ったことが起源とされている。 さらに縁起によれば、刻まれた残り三体の毘沙門天は天高く飛散し、一体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、一体は京都市左京区の鞍馬寺に、一体は奈良県生駒郡平群町の信貴山に安置されたと伝わっている。これら寺院の本尊は現在も毘沙門天であるが、この逸話はあくまで神峯山寺の縁起によるものであり関連は定かではない。 |
総持寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
勝尾寺 桜とダルマと… [ ┗大阪 豊楽の道]
奈良を脱出(´・ω・`)/~~ 大阪北部の山の中へ
ついでに畿内を統一したのであった
山の中なのでまだ咲いてました。
ついでに畿内を統一したのであった
山の中なのでまだ咲いてました。
上之太子 叡福寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
峠を越えて大阪へ。当麻寺から10kmも離れてないけど。
神仏霊場巡拝の道 57番 叡福寺へ
ここには聖徳太子のお墓があるんです。
神仏霊場巡拝の道 57番 叡福寺へ
ここには聖徳太子のお墓があるんです。
施福寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
観心寺 正成首塚 [ ┗大阪 豊楽の道]
観心寺 続き
建掛塔 重文
wiki>境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。
たしかに単層の建築物にしてはたいそうな組物ですね。
中には大日如来と思われる仏像が。
建掛塔 重文
wiki>境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。
たしかに単層の建築物にしてはたいそうな組物ですね。
中には大日如来と思われる仏像が。
四天王寺 その弐 にゃん門 [ ┗大阪 豊楽の道]
続き
六時礼讃堂 重文
>昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。
薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、納骨等を行う当寺の中心道場でもあります。
六時礼讃堂 重文
>昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。
薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、納骨等を行う当寺の中心道場でもあります。
額面には天台座主 源應 何回か名前が出てきたのに 天台座主、近代の人らしい、 その程度の情報しか知りません(-_-;) |
四天王寺 その壱 中心伽藍 [ ┗大阪 豊楽の道]
5/1 15:20
神仏霊場巡拝の道 第43番 四天王寺
石鳥居 1294年建立 重文
wiki>「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり、釈迦如来が仏法を説いている場所でここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
神仏霊場巡拝の道 第43番 四天王寺
石鳥居 1294年建立 重文
wiki>「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり、釈迦如来が仏法を説いている場所でここが極楽の入口であるとの意である。ここは西の海に沈む夕陽を拝して極楽往生を念じる聖地であった。
坐間神社から今宮戎神社まで [ ┗大阪 豊楽の道]
5/1 13:30 再び大阪市内へ戻ってきたときには雨は上がっておりました。
本町駅付近
芭蕉終焉の地
本町駅付近
芭蕉終焉の地
>芭蕉は故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。当時大坂には2人の門人が俳壇をにぎわしていたが、相互に円満を欠くところがあり、それを取り持つための来坂であった。 出発時から体の不調を訴えていたが、住吉神社に詣で宝の市神事に出掛けるなどしたが、その後、発熱下痢を伴い花屋仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日夕方没した。51歳。 GoogleMapで検索すると場所が出てきますが、 碑がある場所とは違います… だいぶ探し回ってしまいました(´ヘ`;) |
小楠公と四条畷神社 [ ┗大阪 豊楽の道]
4日目 再び大阪です。
5/1 8:30 JR片町線 四条畷駅下車 駅の北西200mぐらいのところ
小楠公御墓所
5/1 8:30 JR片町線 四条畷駅下車 駅の北西200mぐらいのところ
小楠公御墓所
住吉大社 [ ┗大阪 豊楽の道]
4/29 14:40
神仏霊場巡拝の道42番(大阪1番) 住吉大社
神仏霊場巡拝の道42番(大阪1番) 住吉大社
「たなべのお不動さん」 法楽寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
4/29 12:30 地下鉄谷町線で2駅 平野→田辺
神仏霊場巡拝の道 第47番 法楽寺 HP
wiki>伝承によれば、源平の戦乱で戦死した平家と源氏の霊を怨親平等に弔うために、源義朝の念持仏であった如意輪観世音菩薩を安置し、壮麗な伽藍が営まれたことが起源とされる。 山号の紫金山は、治承2年(1178年)、仏教の信仰に篤かった平重盛が宋の禅師・育王山仏照の高徳を聞き、黄金3000両を献上し結縁を求めたとの伝えによる(『平家物語』巻三「金渡」にみえる話)。仏照は重盛の仏法への志に感嘆し、育王山伝来の紫金の仏舎利二顆を贈ったという。また、院号の小松院は、平重盛の別称が小松内府と称されてたことにちなむ。 元亀2年(1571年)、織田信長軍の侵攻による兵火で伽藍は灰燼に帰した。正徳元年(1711年)から本格的に復興を開始し、堂塔は大和国・宇陀松山藩織田氏殿舎が移築され、現在に至るまで山門・本堂に残されている。
神仏霊場巡拝の道 第47番 法楽寺 HP
wiki>伝承によれば、源平の戦乱で戦死した平家と源氏の霊を怨親平等に弔うために、源義朝の念持仏であった如意輪観世音菩薩を安置し、壮麗な伽藍が営まれたことが起源とされる。 山号の紫金山は、治承2年(1178年)、仏教の信仰に篤かった平重盛が宋の禅師・育王山仏照の高徳を聞き、黄金3000両を献上し結縁を求めたとの伝えによる(『平家物語』巻三「金渡」にみえる話)。仏照は重盛の仏法への志に感嘆し、育王山伝来の紫金の仏舎利二顆を贈ったという。また、院号の小松院は、平重盛の別称が小松内府と称されてたことにちなむ。 元亀2年(1571年)、織田信長軍の侵攻による兵火で伽藍は灰燼に帰した。正徳元年(1711年)から本格的に復興を開始し、堂塔は大和国・宇陀松山藩織田氏殿舎が移築され、現在に至るまで山門・本堂に残されている。
大念佛寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
葛井寺の藤まつり [ ┗大阪 豊楽の道]
4/29 8:20 神仏霊場巡拝の道 第59番 葛井寺
四脚門(西門)重文
>桃山時代、慶長6年(1601年)豊臣秀頼によって再興された。切妻造、本瓦葺
が開いてないな…
四脚門(西門)重文
>桃山時代、慶長6年(1601年)豊臣秀頼によって再興された。切妻造、本瓦葺
が開いてないな…
大阪天満宮 境内社とかいろいろ [ ┗大阪 豊楽の道]
続き 道真公の歴史館については割愛
大将軍社 天満宮の創建にまつわる社です。
wiki>901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。
>八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)を祀る。
大将軍社 天満宮の創建にまつわる社です。
wiki>901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転させられた際、同地にあった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。
>八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、久那斗神(くなどのかみ)を祀る。
神仏霊場の道 第二弾 太融寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
露天神社から歩いて10分ぐらい
4/28 11:17
太融寺 HP
ここは神仏霊場の道 第51番(大阪第10番)
ということで今回は神仏霊場の旅です。大阪、神戸あたりの電車でいけそうな場所を巡ります。
(お城はちょっとだけしか出てきません。)
ここも含めて再訪の場所も多いのでさらっと流すところもあるかもしれないですが
4/28 11:17
太融寺 HP
ここは神仏霊場の道 第51番(大阪第10番)
ということで今回は神仏霊場の旅です。大阪、神戸あたりの電車でいけそうな場所を巡ります。
(お城はちょっとだけしか出てきません。)
ここも含めて再訪の場所も多いのでさらっと流すところもあるかもしれないですが
龍谷山 水間寺 [ ┗大阪 豊楽の道]
1/31 11:45 大阪の南部、貝塚市という所。
水間観音にやってきました。
日曜日なのもあって多くの参拝者がおられました。
水間観音にやってきました。
日曜日なのもあって多くの参拝者がおられました。
犬鳴山 七宝瀧寺 行者の滝 [ ┗大阪 豊楽の道]
1/31 10:50 大阪府のかなりの山の中 七宝瀧寺に来ました。
開基は伝 役行者。山号の犬鳴山には以下のような伝説があるようです。
wiki>紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝瀧寺の僧となって愛犬を供養した。 このことを聞いた天皇は、いたく感動し、七宝瀧寺に『山号を「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜った」と伝えられている。(義犬伝説)
開基は伝 役行者。山号の犬鳴山には以下のような伝説があるようです。
wiki>紀州の猟師がこの山域で狩りをしていた際、突然連れていた犬が激しく鳴きだし、結果猟師が射ようとしていた鹿が逃げてしまった。怒った猟師は犬の首をはねたのだが、その首はそれでも飛び跳ね、今まさに猟師に襲いかかろうと狙っていた大蛇に噛み付いた。犬は、主人が大蛇に狙われていることを知って鳴いていたのであった。愛犬に救われたと気付いた猟師は、これを悔いて七宝瀧寺の僧となって愛犬を供養した。 このことを聞いた天皇は、いたく感動し、七宝瀧寺に『山号を「いぬなきさん」と改めよ』と勅号を賜った」と伝えられている。(義犬伝説)