鳥羽離宮跡 安楽寿院付近 [ ┗京都のお寺]
近鉄の桃山御陵前駅から竹田駅下車
とある老人ホームの敷地内に
安楽寿院五輪塔 重文
周囲にそれと分かる説明が書かれたものは建っていませんが
その少し南
鳥羽天皇陵
この一帯はかつての鳥羽殿と呼ばれた院御所。
その鳥羽離宮の東殿に仏堂として安楽寿院が建てられました。
東殿跡のここから南殿跡の鳥羽離宮公園まで1kmほどありますから鳥羽離宮はかなり広大な敷地だったんでしょうね~
今も安楽寿院は残っています。HP
wiki>安楽寿院は鳥羽離宮東殿に鳥羽上皇が営んだ仏堂(本尊は阿弥陀三尊)が起源で、創建は保延3年(1137年)のことである(鎌倉時代の史書『百錬抄』による)。当時は安楽寿院という寺号はなく、単に御堂と呼ばれていた。安楽寿院の名称の文献上の初見は康治2年(1143年)である。阿弥陀堂建立の2年後の保延5年(1139年)、右衛門督藤原家成によって三重塔が建てられた。後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に落飾して法皇となる)が保元元年(1156年)に没した際にはこの本御塔が墓所とされている。現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。その後久安4年(1148年)頃には鳥羽法皇の皇后美福門院のために別の三重塔が建てられ、こちらを新御塔と称した。なお、美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られることになった。
基本的に飛び入りの拝観はできない模様で、道路から撮影
本御塔
収蔵庫のようです。期間限定で公開されている模様。
本御塔付近には発掘された建物跡らしき表示
大師堂
薬師堂
安楽寿院から西へ、途中に一か所寄り道したけどそれは明日にして
安楽寿院から200mほど
白河天皇陵
あんまり大きくないですね。20×20mぐらいでしょうかね。
生前の権力の大きさと墓の大きさは比例しないようだ。
とある老人ホームの敷地内に
安楽寿院五輪塔 重文
周囲にそれと分かる説明が書かれたものは建っていませんが
その少し南
鳥羽天皇陵
この一帯はかつての鳥羽殿と呼ばれた院御所。
その鳥羽離宮の東殿に仏堂として安楽寿院が建てられました。
東殿跡のここから南殿跡の鳥羽離宮公園まで1kmほどありますから鳥羽離宮はかなり広大な敷地だったんでしょうね~
今も安楽寿院は残っています。HP
wiki>安楽寿院は鳥羽離宮東殿に鳥羽上皇が営んだ仏堂(本尊は阿弥陀三尊)が起源で、創建は保延3年(1137年)のことである(鎌倉時代の史書『百錬抄』による)。当時は安楽寿院という寺号はなく、単に御堂と呼ばれていた。安楽寿院の名称の文献上の初見は康治2年(1143年)である。阿弥陀堂建立の2年後の保延5年(1139年)、右衛門督藤原家成によって三重塔が建てられた。後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に落飾して法皇となる)が保元元年(1156年)に没した際にはこの本御塔が墓所とされている。現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。その後久安4年(1148年)頃には鳥羽法皇の皇后美福門院のために別の三重塔が建てられ、こちらを新御塔と称した。なお、美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られることになった。
基本的に飛び入りの拝観はできない模様で、道路から撮影
本御塔
収蔵庫のようです。期間限定で公開されている模様。
本御塔付近には発掘された建物跡らしき表示
大師堂
薬師堂
安楽寿院から西へ、途中に一か所寄り道したけどそれは明日にして
安楽寿院から200mほど
白河天皇陵
あんまり大きくないですね。20×20mぐらいでしょうかね。
生前の権力の大きさと墓の大きさは比例しないようだ。
公園管理人と抗争中のスナフキンを想い出しました。
by hanamura (2012-07-22 10:24)
宮内庁の制札の「竹木を切らぬこと」の部分がアクリル板がかかっていた影響が残っていますね。
白河天皇陵の方は「竹木」が「竹本」にされてた形跡がありますね。
自分はまだ見たことありませんが京都の陵墓を訪れたときは見てみたいと思います。^^
by susumu (2012-07-22 12:38)
>hanamuraさん
う〜ん 分かりません
by Sazaby (2012-07-23 17:22)
>susumuさん
いたずら?ですよね?
ほんきで間違えてないですよね…
by Sazaby (2012-07-23 18:28)