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日本二十六聖人記念館 [ ┗博物館などをうろうろと]

市電にのって長崎駅近くの西坂町というところ
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日本二十六聖人記念館へと
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wiki>1596年10月のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉は12月8日に再び禁教令を公布した。また、イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するよう命じた。
大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛された。

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中は撮影禁止なのでこちらのHP
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wiki>24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて(秀吉の命令では耳と鼻を削ぐように言われていた)、市中引き回しとなった。1597年1月10日、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛された。
日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会
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wiki>厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎(当時の長崎奉行寺沢広高の弟)は、一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしたが、ルドビコはこの申し出を丁重に断った。ディエゴ喜斎と五島のヨハネは、告解を聴くためにやってきたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父の前で誓願を立てて、イエズス会入会を許可された。26人が通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることが決まると、一行はそこへ連行された。長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が出されていたが、4000人を超える群衆がそこへ集まってきていた。パウロ三木は死を目前にして群衆に自分の信仰を語った。一行が槍に両脇を刺しぬかれて殉教したのは午前10時ごろであった。

先に訪れた国宝の大浦天主堂も正式名は日本二十六聖殉教者堂。この二十六聖人のために建てられたのです。

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johncomeback

猫のポーズ、セクシーですね。
by johncomeback (2013-07-20 09:33) 

Sazaby

>johncomebackさん
 近寄ってもこのままでしたよ(笑)
by Sazaby (2013-07-20 10:39) 

海を渡る

おはようございます。
長崎はとても一日では回れないですね^^。
丸亀城はやっと行けました。良かったです^^。
by 海を渡る (2013-07-20 11:04) 

Sazaby

>海を渡るさん
 長崎はたどり着くのが大変です(;・∀・)
 今回の旅の終わりに丸亀城は車窓から眺めましたが、その後にまた別に行ってしまいました(笑)
by Sazaby (2013-07-20 18:34) 

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