亀ヶ谷坂 [ ┗史跡をふらふら]
建長寺近くの脇道
鎌倉七口のひとつ
wiki>鎌倉時代にこの位置に道があった確実な証拠はない。一般に流布している1240年に北条泰時が開削したとの節は、吾妻鏡の1240年 (仁治元年)10月10日および19日の条に依拠しているが、そこに書かれているのは「山内の道路を造らるべきの由その沙汰有り」であり、道筋はここ亀ヶ谷坂、そして巨福呂坂のどちらもが考えられる。また『鎌倉市史(総説編)』の高柳光寿は現在の横須賀線の西側の谷、を越えたのではないかとの説も控え目ながら出している。そのどちらかはともかく、遅くとも鎌倉時代後期までには、現在の位置に道(切通し)があった状況証拠を確認することができる。
冬の日没は早くここでタイムアップだったのでした。
鎌倉七口のひとつ
wiki>鎌倉時代にこの位置に道があった確実な証拠はない。一般に流布している1240年に北条泰時が開削したとの節は、吾妻鏡の1240年 (仁治元年)10月10日および19日の条に依拠しているが、そこに書かれているのは「山内の道路を造らるべきの由その沙汰有り」であり、道筋はここ亀ヶ谷坂、そして巨福呂坂のどちらもが考えられる。また『鎌倉市史(総説編)』の高柳光寿は現在の横須賀線の西側の谷、を越えたのではないかとの説も控え目ながら出している。そのどちらかはともかく、遅くとも鎌倉時代後期までには、現在の位置に道(切通し)があった状況証拠を確認することができる。
冬の日没は早くここでタイムアップだったのでした。
ご訪問ありがとうございますm(__)m
by さらまわし (2015-05-07 19:25)