神仏霊場巡拝の道 12番 丹生都比売(にうつひめ)神社 HP紀伊国一宮で、また
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部でもあります。
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創建の年代は不詳である。『丹生大明神告門』では、祭神の丹生都比売大神は紀の川川辺の菴田の地に降臨し、各地の巡行の後に天野原に鎮座したとしている。『日本書紀』の神功皇后条に「天野祝」の名があり、当社の神官のことと考えられている。丹生都比売神の名の国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条である。延喜式神名帳では「紀伊国伊都郡 丹生都比女神社 名神大月次新嘗」と記載されている。輪橋鏡池禊川に架かる
禊橋を渡り、
中鳥居をくぐります。
中鳥居の先に見えるのが
楼門 重文です。
本殿 重文
祭神は以下
第一殿
丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ。丹生明神)
第二殿
高野御子大神(こうやみこのおおかみ。狩場明神)
第三殿
大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ。気比明神)
第四殿
市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ。厳島明神)
御朱印wiki>
空海が高野山金剛峯寺を開く際に神領の一部を寄進したと伝えられ、高野山の鎮守神とされた。『今昔物語』には、密教の道場とする地を求めていた空海の前に「南山の犬飼」という猟師が現れて高野山へ先導したとの記述があり、南山の犬飼は狩場明神と呼ばれ、後に当社の祭神である高野御子大神と同一視されるようになった。鎌倉時代以降は、高野山上の僧が厳冬期の避寒のための当社に帯在したり、高野山で火災があったときに仮執務が行われたりなど、高野山との関係がより深くなった。修験道の修行の拠点ともなっていた。高野山の壇上伽藍にある御社の丹生明神と高野明神はこちらから勧請されたのです。
現在も高野山の僧侶が神前で読経するらしいです。
HPには神仏習合時代の境内をCG再現したものが
http://www.niutsuhime.or.jp/cg/niutsu.wmv ちょっと重いかもかつては、大師堂、多宝塔、経蔵等々建てられていたようです。