乙女峠マリア堂wiki>
1867年(慶応3年)、長崎のフランス人神父ベルナール・プティジャンによる信徒発見をきっかけに、新政府による大規模な隠れキリシタン弾圧事件が起こる(浦上四番崩れ)。長崎浦上村の3,392名は萩・福山などに配流となり、信徒ら153名が乙女峠の光琳寺に幽閉された。信徒らは長崎から安芸国廿日市の津和野藩御船屋敷まで船で運ばれた後、津和野街道を90キロメートル程徒歩で移動して光琳寺に到着。津和野藩により信徒に対して酷い拷問が行われ、1870年(明治3年)までに36名の殉教者を出した。その際に聖母マリアが現れ、信者に語りかけ励ましたという伝説があり、日本におけるカトリック教会の広島司教区の司教が聖母の出現として認可している(カトリック教会としては未承認)。 光琳寺の跡地には1948年(昭和23年)にマリア聖堂が建造された。ステンドグラスには当時の悲劇の様子が描かれている。江戸時代の話ではなく明治時代に入ってからのお話です。