2013年07月14日 - 教会 ※”聖コルベ記念館”で検索すると大浦天主堂付近のショップっぽいものがヒットするけどもそことは違います。長崎電軌5系統に乗って終点”蛍茶屋駅”まで、そこから山を登ること10分ほど途中こんな宝篋印塔を見ながら 聖母の騎士高等学校という高校の敷地内へ聖コルベ記念館へマキシミリアノ・コルベ:聖母の騎士社HP>3人の宣教師は、大浦天主堂の近くに借家を見つけ、早速文書伝道の作業にとりかかり、同年5月24日、日本活字による「聖母の騎士」第1号を1万部発行しました。ポーランド人の宣教師達が、上陸して1か月後に日本語による聖母の騎士誌を編集発行したのです。そののち、町はずれの山の斜面に修道院とルルドを開き、「無原罪の聖母の園」と名づけ、フランシスカン的な清貧生活を営みながら、聖母の騎士誌の発行と学園教育に専念しました。コルベ神父の部屋が残されています。身代わりの死wiki>1941年2月17日にゲシュタポにより、4人の神父と共に逮捕された。その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチに対して批判的なものであったからとも、当時のナチスはユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。