峠を越えて大阪へ。当麻寺から10kmも離れてないけど。
神仏霊場巡拝の道 57番 叡福寺へ
ここには聖徳太子のお墓があるんです。
扁額 岸元総理の書と。戦後の総理ですな、 まあ知りません。
金堂本尊は
如意輪観音中には入れなかったような記憶
多宝塔 重文
1652年(承応元年)建立
聖霊殿 重文
秀頼により再建
本尊は聖徳太子十六歳の等身像ということですが、閉まってて見えませぬ。
聖徳太子廟門の背後に
叡福寺北古墳があります。
ちゃんと宮内庁に比定されたお墓です。
唐屋根の下には、これは阿弥陀三尊?
宮内庁管轄の陵墓に仏像が掲げられてるのは初めて見たかな?どうだろ??
wiki>
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたという。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。
古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。wikiにはこの廟の七不思議という項目ものってます。
1.樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
2.鳥が巣を造らない。
3.大雨が降っても御廟の土が崩れない。
4.御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
5.メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後(天喜2年(1054年))に発見された。
6.御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
7.寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。
不思議なことなのかどうかも分からない項目もあるけども
浄土堂大師堂御朱印