大阪との県境近くの山の中へ
- ┗奈良 鎮護の道
神仏霊場巡拝の道 30番 朝護孫子寺へ HP
wiki>醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。
山の上には城跡が。
東大寺大仏殿を焼いた梟雄、松永久秀が平蜘蛛を抱えて爆死したという信貴山城があります。行く時間は取ってないですが。
(浜松のとある美術館に平蜘蛛の茶釜は存在しているという話も)
←ちょうどここで休憩してる時に現れた∑( ̄□ ̄;)
安土城よりも早く存在したという天守閣(四重櫓)があったそうだが、そのうちにまた。
赤門
聖徳太子御像
山の中のお寺なのに結構広いんですね^_^;
本堂はまだ先なのだ
wiki>醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。
山の上には城跡が。
東大寺大仏殿を焼いた梟雄、松永久秀が平蜘蛛を抱えて爆死したという信貴山城があります。行く時間は取ってないですが。
(浜松のとある美術館に平蜘蛛の茶釜は存在しているという話も)
安土城よりも早く存在したという天守閣(四重櫓)があったそうだが、そのうちにまた。
赤門
聖徳太子御像
山の中のお寺なのに結構広いんですね^_^;
本堂はまだ先なのだ