座喜味城跡(ざきみじょうあと)
wiki>1416年-1422年に読谷山の按司護佐丸(ごさまる)が築城したとされている。城門のアーチに楔石を用いており、アーチ門では古い形態とされる。
沖縄戦前には日本軍の砲台や、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたため一部の城壁が破壊されたが、城壁の復元が行われた。
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰と同時に国の史跡に指定されたが、米軍基地として使用されていた部分は指定し得なかったため、返還を機に追加指定された。ただし、現状変更のあった部分(西側道路部分)についてはのちに指定を解除している。
護佐丸は北山王に滅ぼされた今帰仁城主の末裔。尚巴志が北山征伐を開始するとこれに加わり、
北山王を駆逐したのです。
その後、北山を監視するこの位置に座喜味城を築城し、尚氏とも強く結びついたのですが、
讒言により謀反を疑われて、抵抗もせず自害したのです。
その辺りの話はまた別の場所で。
二の郭への門