帰雲城跡
飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。地震に山をゆりくずし山河多くせかれて、
内島の在所へ大洪水はせ入って、内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。
他国へ行きたる四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。彼の在所はことごとく渕になりたる也。貝塚御座所日記より
wiki>天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正大地震が起き、帰雲山の山崩れで埋没。
城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡してしまった。
なお、城のあった正確な位置は現在も特定されていない。
菩薩像の後ろの方に帰雲山があります。
雨降ってたんでよく見えないかもしれないですが、がっつり崩れてます。
とても400年以上前の出来事の話とは信じられません…
GoogleMapの航空写真で見ても大きな爪痕がはっきり…
これはなんだ?
ちょっと横には
o(・_・= ・_・)oキョロキョロ
後ろを振り返るとそこにお社が
帰り雲神社
さっきの立て看板の内容はこの社の石垣を差している? あんまり似てないな
武将の面影?
姫の横顔?
分かんない┐(´д`)┌
天正大地震
wiki>琵琶湖では、下坂浜千軒遺跡となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没。
越中国では木舟城が地震で倒壊、城主前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
また、飛騨国帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没、城主内ヶ島氏理とその一族は全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。
郡上では、奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時6、70軒)が一瞬で、崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
その他、美濃国では大垣城が全壊焼失、近江国では長浜城が全壊し、城主山内一豊の息女与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡するなど、近畿、東海、北陸にかけての各地で甚大な被害が出た。
京都では東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた。
尾張国では昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された。
飛州の帰雲と云う在所内島と云う奉公衆ある所なり。地震に山をゆりくずし山河多くせかれて、
内島の在所へ大洪水はせ入って、内島一類地下人にいたる迄残らず死たる也。
他国へ行きたる四人残りて泣く泣く在所へ帰りたる由。彼の在所はことごとく渕になりたる也。貝塚御座所日記より
wiki>天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正大地震が起き、帰雲山の山崩れで埋没。
城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ島氏は滅亡してしまった。
なお、城のあった正確な位置は現在も特定されていない。
菩薩像の後ろの方に帰雲山があります。
雨降ってたんでよく見えないかもしれないですが、がっつり崩れてます。
とても400年以上前の出来事の話とは信じられません…
GoogleMapの航空写真で見ても大きな爪痕がはっきり…
これはなんだ?
ちょっと横には
o(・_・= ・_・)oキョロキョロ
後ろを振り返るとそこにお社が
帰り雲神社
さっきの立て看板の内容はこの社の石垣を差している? あんまり似てないな
武将の面影?
姫の横顔?
分かんない┐(´д`)┌
天正大地震
wiki>琵琶湖では、下坂浜千軒遺跡となる現長浜市の集落が液状化現象により、水没。
越中国では木舟城が地震で倒壊、城主前田秀継夫妻など多数が死亡した。前田秀継は前田利春の子で前田利家の弟である。
また、飛騨国帰雲城は帰雲山の山崩れによって埋没、城主内ヶ島氏理とその一族は全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出すこととなった。
郡上では、奥明方(現郡上市明宝)の水沢上の金山、また集落(当時6、70軒)が一瞬で、崩壊し、辺り一面の大池となったといわれる。
その他、美濃国では大垣城が全壊焼失、近江国では長浜城が全壊し、城主山内一豊の息女与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡するなど、近畿、東海、北陸にかけての各地で甚大な被害が出た。
京都では東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れた。
尾張国では昭和63年(1988年)度に実施された五条川河川改修に伴う清洲城下の発掘調査で、天正大地震による可能性の高い液状化の痕跡が発見されている。天正14年(1586年)に織田信雄によって行われた清洲城の大改修は、この地震が契機だった可能性が高いと考察された。