富岡城 二の丸

鈴木重成像(左) 鈴木正三

家康、秀忠に仕え、重成は原城殲滅戦にも参加。
その後、天草は天領地となり、重成が代官として赴きました。
wiki>当時の天草は、この地を支配していた唐津藩主の寺沢広高・堅高2代にわたって為された過酷な収奪と、乱による荒廃で疲弊を極めていた。重成はこの地域への植民を促進し、寺沢氏の算出した石高を疑問視して再検地を実行した。また、踏絵を執行する傍らで兄・正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧めたり、彼の手による『破切支丹』を刊行したりと硬軟織り交ぜたキリシタン統制も行った。

しかし、それでも天草の経済的復興には限界があると痛感した重成は、幕府に対して年貢米の減免を建議した。再三の要請にもかかわらず、それは聞き容れられることがなかったため、承応2年(1653年)、訴状を残して江戸の自邸で自刃を遂げた。享年66。

この抗議自殺に驚いた幕府は、慌てて減免を前向きに検討し、実現した。