山口県 下関市
勝山御殿跡

wiki>幕末の文久3年(1863年)5月から、長州藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始したが、その後6月にフランス軍艦の報復攻撃を受けた(下関戦争)。

長州藩支藩・長府藩の藩邸(櫛崎城)は関門海峡に近接した海岸沿いの場所にあったが、情勢が緊迫する中、藩主毛利元周が藩邸を内陸に移すことを決定した。同年6月28日から翌年にかけて行われた突貫工事により、勝山山麓に勝山御殿を築いた。工事には長府藩領内の男女が総動員された。文久3年(1864年)2月1日には、長府藩主(のち知藩事)の居城となったが、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁(廃藩置県後は豊浦県庁)とされた後、明治6年(1873年)に解体された。