エレベーターで地下600mへいったつもりに
模擬坑道

wiki>戊辰戦争が終結した直後、神永喜八、片寄平蔵らにより発見された1870年代から、茨城県北部(旧水戸藩)から福島県浜通り南部(旧磐城平藩)にかけての海岸線に面する丘陵地帯にかけて、大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。地下水が多く温泉も湧き出すため坑内は暑く過酷な環境で、1tの石炭を採掘するのに4t程度の地下水が湧き出すともいわれ(常磐炭鉱記録映画による)当時世界最大級の排水ポンプを並べるなど採炭コストも高かった。しかし首都圏に最も近い大規模炭田であり、また石炭以外にも銅を産出する地域(日立銅山)も含まれていたので、第二次大戦前には首都・東京に近い鉱工業地帯として発展した。