立花家史料館と同じ敷地
柳川藩主立花邸 御花 HP

wiki>藩主立花貞俶の治世中の元文2年(1737年)に国元での奥(藩主側室や子息、女中の居住地)として使われていた柳川城二の丸御殿が手狭になったので、奥の移転が計画される。貞俶が花見や相撲見物に使っていた三の丸の茂庵小路御茶屋でもやはり手狭だったので、より広いかつての鑑虎の別邸が移転地に決定する。元文3年には、かつての鑑虎の別邸に二の丸座敷を直接移築するなどの普請が加えられ、旧暦7月7日に藩主子女や女中が二の丸より引越し、御花畠と命名された。


こうして、御花畠は柳川藩の国元の奥として明治時代まで機能するようになる。なお、藩主の国元での居住は柳川藩本丸御殿で、藩主は御花畠と柳川城を行き来していたが、嘉永3年以降は御花畠に居住しており、事実上柳川藩主家の国元の私宅となっている。