勝山御殿跡 [ ┗中国・四国の100名城]
山口県 下関市
勝山御殿跡へ
wiki>幕末の文久3年(1863年)5月から、長州藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始したが、その後6月にフランス軍艦の報復攻撃を受けた(下関戦争)。
長州藩支藩・長府藩の藩邸(櫛崎城)は関門海峡に近接した海岸沿いの場所にあったが、情勢が緊迫する中、藩主毛利元周が藩邸を内陸に移すことを決定した。同年6月28日から翌年にかけて行われた突貫工事により、勝山山麓に勝山御殿を築いた。工事には長府藩領内の男女が総動員された。文久3年(1864年)2月1日には、長府藩主(のち知藩事)の居城となったが、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁(廃藩置県後は豊浦県庁)とされた後、明治6年(1873年)に解体された。
三の丸跡
遊具とかあって、ただの公園だと思ってたので向こうにある、虎口は確認せず。
本丸石垣
こっちの地方特有の山縣積み。目地が縦や斜めに走ってたり、部分的に巨石を使ってます。
二ノ丸の石垣はちょっと認識できなかったな。 腰巻の石垣だったようなので埋めてあるのかもしれない。
本丸跡
奥に石垣がちょっと見えてますが、手前が御殿の政務する場所。奥の段が城主の居間が建ってました。
本丸まで車道がぶち抜かれてますが…
へびに注意… いやこんな山の中 蛇はいるだろ??
心字池跡
御殿の背後には青山城跡と勝山城跡 こちらは中世の城郭かと思います。
勝山御殿跡へ
wiki>幕末の文久3年(1863年)5月から、長州藩は関門海峡を通過する外国船への砲撃を開始したが、その後6月にフランス軍艦の報復攻撃を受けた(下関戦争)。
長州藩支藩・長府藩の藩邸(櫛崎城)は関門海峡に近接した海岸沿いの場所にあったが、情勢が緊迫する中、藩主毛利元周が藩邸を内陸に移すことを決定した。同年6月28日から翌年にかけて行われた突貫工事により、勝山山麓に勝山御殿を築いた。工事には長府藩領内の男女が総動員された。文久3年(1864年)2月1日には、長府藩主(のち知藩事)の居城となったが、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁(廃藩置県後は豊浦県庁)とされた後、明治6年(1873年)に解体された。
三の丸跡
遊具とかあって、ただの公園だと思ってたので向こうにある、虎口は確認せず。
本丸石垣
こっちの地方特有の山縣積み。目地が縦や斜めに走ってたり、部分的に巨石を使ってます。
二ノ丸の石垣はちょっと認識できなかったな。 腰巻の石垣だったようなので埋めてあるのかもしれない。
本丸跡
奥に石垣がちょっと見えてますが、手前が御殿の政務する場所。奥の段が城主の居間が建ってました。
本丸まで車道がぶち抜かれてますが…
へびに注意… いやこんな山の中 蛇はいるだろ??
心字池跡
御殿の背後には青山城跡と勝山城跡 こちらは中世の城郭かと思います。
なんだか、おもしろい石垣で、近くで見たいです。
注意の生物が居るなら、冬に行くことにします。
by hanamura (2014-08-23 09:09)
自分も基本夏はオフシーズンです
暑いから( ;谷)
by Sazaby (2014-08-23 20:35)