大内氏館 その壱 [ ┗史跡をふらふら]
山口市 大内氏館
wiki>大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館で、京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。
最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われる。初期は、館は溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中頃には空堀と土塁によるある程度の防御力を備えた城館になった。堀はさらに南側にも伸びていることから、土塁で囲まれた部分よりさらに南にも関連する施設があったと推定されている。
wiki>大内義隆の時代の天文20年(1551年)に家臣の陶隆房の謀反により山口は灰燼に帰した(大寧寺の変)。この時の大内氏館の状況は不明であるが、変の後は、新たな大内氏の当主となった大内義長が大内氏館に入った。
弘治2年(1556年)に毛利元就が侵攻(防長経略)してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡。大内氏館もその役目を終えることとなった。そして翌年、同地に毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立している。
龍福寺
本堂(旧興隆寺釈迦堂)は重文
お寺の周囲(おそらくはもともと境内だと思いますが)は大内氏館として整備されてます。
石組井戸跡
池泉庭園
wiki>大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館で、京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。
最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われる。初期は、館は溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中頃には空堀と土塁によるある程度の防御力を備えた城館になった。堀はさらに南側にも伸びていることから、土塁で囲まれた部分よりさらに南にも関連する施設があったと推定されている。
wiki>大内義隆の時代の天文20年(1551年)に家臣の陶隆房の謀反により山口は灰燼に帰した(大寧寺の変)。この時の大内氏館の状況は不明であるが、変の後は、新たな大内氏の当主となった大内義長が大内氏館に入った。
弘治2年(1556年)に毛利元就が侵攻(防長経略)してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡。大内氏館もその役目を終えることとなった。そして翌年、同地に毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立している。
龍福寺
本堂(旧興隆寺釈迦堂)は重文
お寺の周囲(おそらくはもともと境内だと思いますが)は大内氏館として整備されてます。
石組井戸跡
池泉庭園
前山口県民(現栃木県民)ですがぁ・・・。
山口って、日本の歴史ほぼ全てで、オラオラ感がある気がします。
自分(ズブン)出身地の静岡って、家康公大御所時代だけがオラオラだなぁ~。
(オラオラは、存在感というか、周囲への発揮のイメージです。)
by hanamura (2014-08-13 22:53)
トロべえもオラオラですよ(¬_¬)
by Sazaby (2014-08-14 07:38)