SSブログ

ひめゆりの塔 [ ┗博物館などをうろうろと]

沖縄県糸満市 国道そば
DSC05945.jpg


wiki>1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。

ひめゆりの塔
DSC05951.jpg

wiki>戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。従って、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)のみである。


DSC05949.jpg

wiki>第一外科壕、第二外科壕は、アメリカ軍の攻撃を事前に察知し、19日未明までに地下壕から脱出した(そのうちの一部は第三へ避難)。しかしこれらの学徒隊もその後の激しい戦闘で多くが死亡した。職員を含むひめゆり学徒隊240名中、死亡者は生徒123名、職員13名であるが、このうち解散命令以後に死亡したのは117名で全体の86%にものぼり、さらに判明しているだけでも全体の35%にあたる47名が第三外科壕に攻撃があった6月19日に亡くなっている。

DSC05952.jpg

沖縄陸軍病院第三外科濠跡
DSC05953.jpgDSC05955.jpgDSC05963.jpgDSC05964.jpg

ひめゆり平和祈念資料館 中の写真はないんです。
DSC05958.jpg
nice!(64)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 64

コメント 4

moto_mach

忘れちゃいけない悲劇ですね
by moto_mach (2013-10-09 08:16) 

Sazaby

>moto_machさん
 まったくその通りです
by Sazaby (2013-10-09 20:53) 

johncomeback

ひめゆり平和祈念資料館、行きました。
その後しばらく夫婦の会話が途絶えました。
by johncomeback (2013-10-09 22:22) 

Sazaby

>johncomebackさん
 悲しい過去です。
 こういうとこで実際に名前とか見ると、数字で表される何倍も伝わってきます。
by Sazaby (2013-10-09 22:38) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。