SSブログ

応仁の乱勃発の地 上御霊神社 [ ┗京都 楽土の道]

宝鏡寺からこんどは東へ 1kmぐらい
2/2415:00 神仏霊場巡拝の道 100番 御霊神社HP
_DSC4000.jpg
wiki>桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。

現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。



応仁の乱勃発の地
_DSC4001.jpg
DSC06004.jpg
応仁の乱の前哨戦、御霊合戦について書かれています。

狛犬獅子
_DSC4003.jpg_DSC4002.jpg


_DSC4004.jpg

芭蕉句碑
_DSC4009.jpg
半日は

神を友にや

年忘れ


拝殿
_DSC4015.jpg

本殿
_DSC4013.jpg
祭神は以下八柱
崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文屋宮田麿)
火雷神(以上六柱の荒魂。)
吉備大臣(吉備真備)
wiki>上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、同6年(775年)4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に薨去した。なお、この不自然な死には暗殺説も根強い。
また下御霊神社では吉備大臣(吉備聖霊)=六座の和魂とされてました。
吉備真備は成功者ですから、下御霊社の方が自然ですよね。
御朱印
DSC06160(1).jpg

_DSC4021.jpg_DSC4020.jpg

_DSC4016.jpg_DSC4017.jpg

_DSC4023.jpg
nice!(92)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

nice! 92

コメント 6

よっすぃ〜と

応仁の乱ってなんやったっけ?って感じです。
学生時代に習った歴史って全然覚えてませんが、最近お城歩きするようになると自ら興味を持って調べるようになって、よっぽど勉強になります。
by よっすぃ〜と (2012-06-04 19:59) 

Sazaby

>よっすぃ~とさん
 自分も訪れてから知ることばっかりです(°Д°)
by Sazaby (2012-06-04 20:21) 

susumu

なるほど、ここで応仁の乱の前哨戦が行われたのですか。
かつては兵2千が布陣出来るほど広かったんですね。^^
by susumu (2012-06-04 20:41) 

Sazaby

>susumuさん
 昔から家督争いが絶えないですね
 家康の能力問わず嫡男に継がせるという判断はある意味正しいのかもしれないですね
by Sazaby (2012-06-04 20:59) 

シービーちゃん

戦国時代や源平合戦は、よく知られているのに、応仁の乱って、現代の人にはマイナーな歴史ですよね。そういう私も、あやふやです。恥ずかしい。
by シービーちゃん (2012-06-04 23:52) 

Sazaby

>シービーちゃんさん
 京都をほぼ焼き尽くした戦ですが、どうして起こって誰が戦ったかとかはあんまり知られてないですよね。
by Sazaby (2012-06-05 06:03) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。